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2016-05-23 09:25 | カテゴリ:スリップ

 8月1日、金曜日。僕の復職初日は寝過ごして遅刻という大失態からスタートした。
 前日夜、僕は麻友美さんの部屋でふたりしてお酒を飲み、朝帰りしたあとで二度寝してしまったのだ。

 99日間の入院生活を通して「アルコール依存症」という病気についてたくさんのことを学んだはずの僕が、実家での生活に戻ってから再び飲酒に走るまで時間はかからなかった。
 退院直後こそお酒から遠ざかり、趣味を持とうと家電量販店で数千円出してプラモデルなんぞを買ってもみたが、すぐに「一杯だけならいいだろう」という誘惑に負け、酎ハイに口をつけた。それが1本から3本、4本となり、結局元の酒飲みに戻った。これまで何度も耳にしてきた実例に漏れず、僕も完全にスリップとなったわけだ。

 麻友美さんとは何度か連絡を取っており、このままではいけないとは思いながらも、中途半端な飲み友達の関係が続いた。お互いに淋しさを紛らわせたいだけの僕らは、たいていの場合は単なる傷のなめ合いに終始していた。


 日々は過ぎる。上司にこっぴどく叱られて最悪の始まりとなった仕事のほうも、現場に戻った秋口には過剰なストレスを余儀なくされていた。僕のココロは弱いままだった。会社に居場所を作ることができず、毎日逃げるように帰宅し、夜が明けるのを拒むかのようにお酒を飲んだ。
 それでもAAには通ってスリップを告白していたが、そのうちミーティングの帰り道でもコンビニで酎ハイを買って飲むようになり、煩わしさと後ろめたさから次第に足が遠のいていった。


 年が明け、2015年になった。月に一度の外来も、2月を最後に行かなくなった。渡辺先生の「飲んでますか?」という質問に正直に答えても再入院を勧められるだけなのだが、経済的な事情や両親の手前、それは無理な選択だった。だから飲んでないとか少しだけ飲んだとか、そういう空しい嘘をつく。けれどもやっぱりそんなことは後ろめたくなるだけで、結局最後には足が向かなくなった。カウンセリングに至っては、一度も行かずじまいだった。
 アルコールを摂取しているため、安定剤や眠剤もきちんと飲んでいなかった。会社の出勤前と休み時間に、食事の代わりにジアゼパムやエビリファイを飲んだり飲まなかったりするだけで、処方された薬を飲みきると、あとはひたすら我慢の日々しかなかった。

 会社も休みがちになった。給料日のあとは歓楽街の居酒屋やキャバクラを徘徊し、数日で何万も使ったが、泥酔しているのでまるで覚えていない。少ない給料を一晩でほとんど使ってしまったこともあった。
 すべて悪いほうに転がり落ちていくのを感じていた。


 2015年11月。この月も給料日直後にその大半をキャバクラで使い果たしてしまった。記憶もない。自分でもコントロールできない状態に、激しい自己嫌悪が重なる。それでも部屋で酎ハイを飲み続けたある日、酔った勢いで柏ノ丘病院へ電話をかけた。
 僕の担当ワーカーだった下地さんと話をすることになったが、実のところ何を話したかよく覚えていない。とにかくもう一度、病院で治療をお願いしたいが経済的にそれができない、という相談だったと思う。
 その後、この街の独立支援センターの窓口へ相談した。下地さんに教えていただいたのか自分で自治体へ問い合せたのかは定かではない。ほどなくセンターから担当の方が実家を訪ねて来た。無論、父には僕の口から現状を伝えることとなり、両親を交えての面談となった。
 担当の方からは生活保護を勧められ、11月の末には役所の保護課へ、両親とセンターの方に付き添われて相談に訪れた。実家を出る世帯分離が生活保護を受ける事実上の条件となることを説明され、父の同意のもと部屋探しとなった。11月いっぱいで会社を依願退職し、自分で見つけた家具家電付きのワンルームマンションに転居、年内に晴れて生活保護の申請が下りたのだった。

 ここまでにかかった引越し費用は、大阪から実家へ逃げ帰ったときと同様、父に負担してもらった。この2年近くの間も母の認知症は緩やかに進行し、父も鬱状態になっているようだった。実家でも、僕が父と会話することはほとんどなくなっていた。


 2016年になった。1月8日の外来で、渡辺先生による久しぶりの診察を受け、14日からの再入院が決まった。即日入院が可能なのは5ーA病棟だったが、僕が拒否して5ーB病棟に空きができる14日にしてもらったのだ。
 それから入院当日を迎えるまでは、ただひたすらお酒を飲んだ。この期に及んでも僕は、お酒を完全に断つ覚悟ができていなかった。


 1月14日。2年ぶりとなる柏ノ丘病院の5ーB病棟、同じ53号室。かつて周さんや倉持さんが使っていた窓際のベッドが僕の新たな「引き籠りスペース」となった。
 別の病室に入院していた米窪さんと、まさかの再会をした。米窪さんは昨年の秋口から入院しており、僕と入れ替わるように明日退院するのだという。
 あとで別の患者から聞いた話によると、米窪さんは外出先での飲酒常習者となっており、閉鎖病棟送りや強制退院も何度か喰らっているのだという。駅前ショッピングモールの 100均で買った雑貨を院内で転売して小遣い稼ぎをしたり、夜中に冷蔵庫を蹴り飛ばして叫んでいたりと、僕の知っている米窪さんとは別人の話を聞いているようだった。
 そんな米窪さんは退院準備で忙しかったらしく、ほとんど僕と話すことなく病院を後にしていった。

 僕の担当看護師は、東郷さんが受け持つことになった。沼畑師長も牛本主任も元気そうで、詰所の看護師さんで知らない顔はひとりだけだったが、長浜看護師が別病棟に移り、小里看護師、大田看護師が退職していた。またリハビリ課でも、一宮OTの姿がなくなっていたことに淋しさを感じた。

 僕の再入院生活は焦りの日々だった。退院後は一日も早く生活保護から抜け出て、一般職に就かなければいけない。今の状況は恥ずべきことで、僕は社会のお荷物に過ぎない。
 そんな思いが、僕を余計に殻に閉じ籠らせた。
 正直、院内のAAとレクのバレーにこそ出ていたものの、どのプログラムも参加するのが億劫だった。焦りが先に立ち病棟の患者に溶け込めない。山形さんが入院していたが、ほとんど話すこともなかった。
 孤独で、淋しさばかりを募らせていた。ベッドのカーテンは閉めきったままだった。


 入院後、2週間で全日外出が可能になる仕組みは変わっていなかった。2月末に入り、僕は外出届けを出して自宅へ戻り、酎ハイを飲んで帰院した。当然のことながらこの飲酒は看護師さんにバレることになったのだが、1週間後、行動制限が解かれた日に再び同じことをやってしまった。渡辺先生から下された指示は、6階閉鎖病棟への移動か、さもなければ治療の意思なしと見なされたことによる強制退院だった。
 前回の入院で都合5回スリップしている僕としては、この結果は予想しておらず、面喰らった。正直に認めることなく、飲んでいないと最後まで嘘をついたことが問題だった。完全に甘く見ていた。
 6階の閉鎖病棟へ移ることは、恐怖でしかなかった。今よりもっと孤独が増して、頭がおかしくなってしまうのでは、と本気で感じた。同時に、もうどうでもいいのだという諦めから僕は、
「退院します」
 と答えた。


 2月末日、その日をもって急遽自宅へ帰された僕は、それから1週間、浴びるようにお酒を飲んだ。完全に自暴自棄になっていた。気持ちが悪くなって部屋で嘔吐したが、掃除するのも面倒で、そのまま放置してまた飲み続けた。40歳の誕生日を迎えたが、そんなこともどうでもよくなっていた。

 病院を強制退院になったことについて、父にも兄にも言えなかった。どうすればいいのか、自分で判断できなくなっていた。孤独に苛まれてキャバクラへ行ったと思うが、それもよく覚えていない。
 泥酔して、携帯電話に登録してある知り合いの番号に片っ端から電話をかけまくった。もちろん出る人はほとんどいない。病院の詰所に長電話をかけて夜勤の高木看護師の仕事を邪魔したりもした。
 挙げ句の果てに、何をとち狂ったか 110番へ電話をかけた。3月6日の日中だった。

「これからですねえ、街で騒ぎを起こすかもしれない人間をですねえ、捕まえることはできますかあ?」
 酔っ払っているとはいえ、支離滅裂だ。かといってこれは穏やかではない。放っておくこともできないのだろう、ほどなくしてふたりの警察官が部屋にやって来た。ひとりは僕より少し年上くらい、もうひとりは20代と思われる若いお巡りさんだ。
 年長のお巡りさんが僕の携帯電話から父と兄へ直接連絡をして、今回の失態が知られることになった。仕事を抜け出して部屋へ駆けつけた兄からはこっぴどく叱責され、閉鎖でも何でもいいからもう一度頭を下げて入院させてもらうよう強く言われた。
「次やらかしたら、もう縁切るからな」
 お巡りさんが引き上げ、兄とふたりだけになったとき、最後にこう言われた。

 申し訳ない気持ちがあった。ついさっきまで自暴自棄になっていたのに。ココロがまるで安定していないことが自分でよく分かった。
 ―― 何をやってるんだ、オレは。


 翌日の外来で、渡辺先生に再度入院させて欲しいとお願いした。閉鎖病棟を覚悟していたが、意外にも先生は5ーB病棟での入院を許可してくれた。
 こうして僕は、さらに翌日の3月8日から3度目の入院となった。
「強制退院から1週間で開放病棟に戻れるなんてことは、他の患者さんに与える影響もあるので通常はあり得ないケースなんですからね。次はもうないんだから、今日が新たな誕生日だと思って一からやり直してください」
 看護師さんからはそう念を押された。病室は今回も同じ53号室の、同じ窓際のベッドだ。ひとりで閉じ籠らず、カーテンを常に開けておくことを約束させられた。

 僕が強制退院になっていた間に、福井さんが新しく入院していた。やっぱりお酒は止められなかったらしい。そしてその福井さんから、勝瀬さんの死を知らされた。勝瀬さんがあのあとすぐ再入院したことは知っていたが、その後病院で知り合った女性と親密になり、アルコールに薬物摂取が加わるようになったらしい。いわゆる「クロスアディクション」というケースだ。奥さんとはどうなったのだろう。
 詳しい理由は噂の域を出ないが、いずれにしても勝瀬さんが亡くなったことは紛れもない事実で、それについては東郷看護師からも聞いた。僕は改めて、この病気が死と直結していることを痛感した。回復していくには相当の努力と決意が必要だが、堕ちていくのは簡単なことなのだ。

 3月17日。平日にも関わらず、兄が仕事先から両親を連れて病院にやって来た。時間は午後6時。渡辺先生と面談を行うためだ。夕食の忙しい時間とぶつかっていたが、たまたま夜勤だった東郷看護師もわざわざ立ち会ってくれた。
 依存症は回復可能だが完治はできない、一生向き合っていかなければならない病気であること。社会復帰までには年単位の時間を要すること。これについては、患者である僕自身がいくら叫んでも、再飲酒するための言い訳にしか聞こえない。せめて家族には、然るべき立場の医師や看護師さんから説明して欲しい。兄や父の理解を得るために、僕が病院と兄にお願いしていたことだ。
 先生は2年前に両親に話したように、病気のメカニズムや家族の接し方についてイラストや参考資料のコピーを用いて実に懇切丁寧に説明してくれた。特に、身近な人が知らず知らずのうちに依存症者の病気の進行を助長してしまう「イネイブラー」にならないよう、家族のあるべきスタンス ―― 突き放すべきときは突き放し、依存症者に自己責任を徹底させることなどについては、兄も熱心に聞いていた。チック症で落ち着きのなかった先生の喋り方も、この2年ですいぶんと穏やかになっていたことは、話に説得力を持たせてくれた。

「サトウさんの場合、社会不安傷害の傾向が見られます。周囲が自分の悪い噂をしているんじゃないか、などと思い込んでしまうような症状です。閉鎖病棟に入れてしまうよりも、現在のような環境で少しずつ、コミュニケーションの訓練をしていくほうがいいと思います」

 1時間近くの面談を終え、家族を病院玄関まで見送りに出たとき、兄が言った。
「生活保護でも何でも、とりあえず利用できる制度は利用していけや」
 その言葉だけで充分だった。



 現在僕は、6月の退院に向けてリハビリプログラムを続けている。峰口さんや小千谷さんら、知った顔の患者もいれば、新しく知り合った患者もいる。人間関係に悩むことはあるが、詰所の看護師さんや先生、田村心理士に余すことなく思いをぶつけている。
 退院後はデイケアに通い、その後は作業所での仕事を経て、2~3年後に社会復帰できるよう、焦らず確実にやっていくつもりだ。
 今度こそ、本当に空を仰いで生きていけるように ――


※文中における、病院および病院関係者氏名・団体名、地名等については、すべて仮名とさせていただいています。


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【ジャンル】:心と身体 【テーマ】:禁酒
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